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なぞりなぞれば謎になる 〜新宿眼科画廊「なぞる謎る」展について〜

山本浩生個展「なぞる謎る」が新宿眼科画廊で約十二日間、九月七日まで開催された。紙の皺やおもちゃカボチャの皺、木材の木目、ピザチラシの色彩の境界などをなぞる、なぞるシリーズを中心に、つらぬく、濡らすと乾かす(はがす)、反転するなど多様な試みのもとに創作された様々な作品が大小五つのスペースに配置されいた。

 

そこに謎は一切ない。観た者は全てを了解する。「皺をなぞったのだ」「紙を貫いたのだ」「紙がはがれたのだ」と。そしてその原理も了解する。「ボールペンでなぞったのだ」「ボールペンで貫いたのだ」「濡れた紙が乾いてはがれたのだ」と。「何を作ったのか」ではなく「何をしたのか」の結果が過程を表象する形で現れている。それ以上でもそれ以下でもない。「これはいったい何を表しているのか」と考えるのも馬鹿らしくなるほどに、そこには「皺がなぞられた」以外に何も読み取るものがない。

ところが、目の前に置かれたその作品は、例えば皺をなぞられた巨大なロール紙は、確かにロール紙ではあるがもはやロール紙ではないという、不思議な余剰を宿している。より分かりやすいのは、白地図やピザのチラシだろう。単純に皺や色の境界をなぞっただけにすぎないのだから、白地図だと分かるしピザのチラシだとも分かるが、白地図としての役割もピザのチラシとしての役割ももはや担っていないように見受けられる。カラー地図ではなくあれは確かにまだ白地図なのだが、白地図として使おうとするものはいないだろう。また、あのチラシが配布されてもピザを注文する人はいないだろう。つまり、「なぞる」という行為によって「それであってそれでないもの」が浮かび上がってきているのである。

いや、本当にそうであろうか。単純な事実を見落としている。それは、なぞられたのは皺や色の境界であるということだ。ロール紙や白地図は単純に線が書き込まれて、これ以上に書き込めないということに過ぎない。また、ピザのチラシもボールペンでなぞられて汚く見えるということに過ぎない。私たちが見ているのに見えていないもの。可視化されているのにそれであるとは言い切れないもの。つまり皺と色の境界こそが余剰を宿している張本人なのであると言うべきであろう。

 

ここからの議論はロール紙と白地図の皺など皺をなぞったものに限定したい。なぜならピザのチラシは色の境界をなぞっているため、皺をなぞるのとは見出されるものが異なってくるからである。

まず皺を付けるというのは、平面から立体への変化を遂げることでもある。紙は通常、書き込まれた後、紙としての存在が後退する(平面化する)。これは白地図にも言える。白地図で重要なのは大陸をかたどる線と国や地域を類型化するアレンジの余地である。アレンジの余地が消え、用途別の地図が完成されれば紙としての存在は後退する。ロール紙も白地図重要なのは書かれた内容の方であるのが常である。が、しかし、山本の作品はまだ紙が紙としての存在感を露にし続けている。それは当然ながら皺を付けられたからである。平面ではなく立体的造形物として提示されているからである(ピザのチラシの場合は、色の境界をなぞるため、紙は平面としての役割を担い続けている)。ここでは平面から立体への変化の手段として皺が用いられている。そこではまだ紙が主役であると言ってもよい。皺の付いた紙を作品として提示することもあり得るだろう。しかし、そこに「なぞる」というもうひとつのアクションが加わる。それは皺をどうする「ため」なのか。なぞるは何を目的とした手段なのか。

 

ここでは「なぞる」一般に敷衍させるようなことはせず、皺がボールペンでなぞられたという事実に限定して論を進めていきたい。山本は筆でも鉛筆でもなくボールペンでなぞることを選んだ。これは作家の個性というよりも合理的な判断のもとでのことであろう。皺を効率よく均等になぞるならば、線の太さが変わらないことと、線が途切れないことが重要なはずである(それがよい線だと判断すること自体は作家の個性であるが)。そして、ボールペンにも色々な種類があるが、通常よりインクの出のいいものが選ばれたことは想像に難くない。それは作品を見た時に、線がほとんど途切れていないということからも分かるが、山本がアスファルトの裂け目をチョークでなぞっている動画作品によっても推測ができる。その動画の中での山本のなぞり方は、なぞる裂け目を恣意的に選択しながらも、加える力のベクトルは裂け目に導かれるようにして流れているのが見て取れる。それは道楽的な川下りに似ている。川の流れに身を置きつつも、全てを流れに任せない。左右の選択くらいはするが、右に行きにくいところをあえて右に行くようなこともしないといった具合である。そのような加減で皺はなぞられている。あるいは山本はなぞらされている。そして、線が途切れない、インクの出がいいということから次のようなことが推論できる。それは、ボールペンのインクがなくなるのも比較的早いだろうということ。ボールペンとははじめからインクの内蔵されたペンである。ボールペンで書くということはインクをペンの中から紙の上へと移動させることに他ならない。中のインクが全て移動すれば、残るのは抜け殻のペンである。なぞることで大量の抜け殻のペンが生み出されているのである。

ボールペンで文字を書く場合、それは単なるインクの移動である。しかし、ところ狭しと刻まれた皺をなぞることは、ひからびた川に水が流れると言うように、血管に血が流れると言うように、「流れる」という言葉の方があっているように思える。それは活力と液体との関係と同じである。力は注がれるものであり、液体的なものである。「死力を注ぐ」という表現があるが、それは死んでもいいという覚悟で生命の流れを早めて密度を濃くすることである。その後はたいがい倒れる。水気のない皺にインクが注がれる。皺が「蘇る」。反対にペンはひからびる。活力の交換が行われた。

しかし、活力に満ちたものだけが作品たりえるのか。そうではない。空になった大量のペンも作品たりえるはずである。しかし、それがなぜ展示会場に置かれていないのか。私はこう解釈する。「なぞる」という行為を続けた結果、片方は謎になってしまったのだと。「なぞるなぞる」という動作を表す言葉の反復は実際に書かれる(ボールペンでなぞられる)ことによって「なぞる謎る」となり、後方が「謎」になってしまったのだと。「謎」は確かに展示会場にはなかった。「謎」は抜け殻になったペンを想像する私の頭の中にあったのだ。

 

ここにきて新たな作品の存在に気付くことができた。そして「なぞる」がどのような変化を生み出す手段として用いられたのかにも気付くことができただろう。単に皺の付いた紙を提示するだけでも作品と言えたはずである。しかし、その皺を利用して、つまり「なぞる」という手段によってもう一つの作品が生み出された。そしてその新たな作品は展示された作品と対を成すように、互いが互いの読み解き方を規定するかのように機能している。全てが了解されていたはずなのに、突然の、ボールペンでなぞったという事実の想像の介入が作品を読み替えるきっかけとなっている(そもそも読み解くものがないとも言えるので、読み替えとは言わないかもしれないが)。しかし、その想像はもともとは作品自身から見出されたものであることも忘れてはならない。

 

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