八〇〇文字でブログ

原稿用紙2枚くらいで批評やエッセイを書くブログ。

toddle『Vacantly』の時間

 音楽は時間とともにある。音楽があるというとき、そこには時間が流れる。いや、音楽がなくても時間は流れているが、音楽があることによって、ぼくたちは時間の流れを感じざるをえなくなる。しかしそれは音楽「の」時間であって、ぼくたちが日々意識している時間とは異なる。音楽を聴くとき、そこにはいつもとは違う時間が流れているように感じる。それは音楽をとめたとき、音楽とともに別のなにかが消えてしまったように感じてしまう、その喪失感から遡行的に発見できるものなのだろう。あー、いまぼくは音、リズム、そして言葉が生み出す時間の流れの中にいたのだと。『Vacantly』もその例外ではない。別の時間が、収録されている一曲一曲によって呼び出される。がしかし、それだけにとどまらなかった。

 

  ”Disillusion”は「正気にさせる」とか「迷いをさまさせる」といった肯定的な意味がある一方で、「幻滅を感じさせる」という否定的な意味もある。そのどちらに重きが置かれているのかはわからない。あるいは、もっそ即物的に”illusion”が”dis”されるだけなのかもしれない。

 ゆっくりと爪弾かれる牧歌的なギターの音色、つづくシンバルがなにかのはじまりを期待させる。なるほど確かに、さわやかな情景、迷いのない表情が目に浮かぶ。Disillusion。目覚めだ。しかし、曲の中盤。「誰もさわれない」そして「決して染まることのない」影が、それほどに純粋な影が「消えていく」、と言葉が告げる。と同時に、言葉も消える。その隙間をギターソロが埋める。音色は悲しみに満ちている。

 言葉の主はいずこへ。まるで彼女自身が影であり幻想/illusionであったかのようである。はじめのシンバルに抱いた期待。それももはや自分とは関係のないなにかのはじまりに過ぎなかったのかもしれない。曲が終わる。「別の時間」も消える。その中にいた言葉の主はもっと深くに消えていってしまう。二重の喪失感。大切なものをなくしてしまった気がするのに、もはやなにをなくしたのかすら思い出せないかのよう。

 

 音楽の時間がおわり、知覚する時間がひとつに絞られるまでの間、ほんのその一瞬、また別の時間がぼんやりと流れる。音楽にも現実にも属さない時間。二重の喪失感と、その喪失感に相反するように現実が立ちあらわれてくる。現実がはっきりとしてくるまでの間の時間。大切なものをなくした自分の生きる現実は、あのはじまりのシンバルのように自分とは関係のないことのはじまりで満ちている、ように感じる。それでもそこで生きなければならない。そして現実へと引込まれていく。しかし、引き裂かれの時間を感じたぼくは以前のぼくではない。そこには、なにかをなくしてしまっていると自覚しているぼくがいる。