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私たちは暴力を見ているのか 〜『トロイアの女』を通じて〜

 週末を利用して、富山県利賀村に行ってきました。演出家鈴木忠志が代表を務める劇団SCOTによる『トロイアの女』を観るために。この作品では、トロイア落城直後、これから奴隷として連れて行かれるのを待つトロイアの女たちが描かれています。

 この記事では、印象的だった殺害の場面と、最後に流れる演歌を、今のインターネット事情に置き換えて語ってみようと思います。諸処記憶があいまいな部分があり、あまり正確ではないのですが、この作品から感じ取ったことを書きたいと思います。

 

 『トロイアの女』の特徴は、なんといっても「演者が動かない」ということでしょう。だからこそ、動きの豊かな場面になると、それがゆっくりとしたものであっても、「動き」として印象的なものとなります。

 特に「殺される」場面は誰もが思い出せるところではないでしょうか。舞台中央にてスローモーションで切られていく女。刀で腕を引き裂かれる子。私たちは、その「暴力」の一部始終を見せつけられることになります。しかも、それまでが静的なものだっただけに、ここにきて初めてストーリーが生み出されたかのような感覚に陥るのです。つまり、これまでは基本的にトロイア落城への嘆き、これからの人生への嘆きが発せられるのみで、何かが起こるというわけではありません。むしろ、解説にあるように、トロイア落城という最大の事件はもうすでに起こり、終わっているのです。嘆きは嘆きであり、そこに「変化」はありません。しかし、生きているものが死ぬという「変化」が殺害によって初めてなされることにより、そこにストーリーが見出されます。ストーリーが見出されることにより、その「暴力」は私たちの脳に深く刻み込まれていくのです。『トロイアの女』は「静(嘆き)」の状態から一挙に「動(殺害)」を出現させることで「暴力」を強調していたのではないでしょうか。

 

 しかし、「暴力」を見せつけられうろたえる私たちに訪れるものは「安堵」となっています。最後になぜか歌が流れるのです。“I want you love me tonight ♪”って欧陽菲菲の『恋の十字路』が流れます。これまでのことが無かったかのように、急にこの曲が耳に入ってきます。一九七三年のヒット曲だそうで、『トロイアの女』の初演が七四年ですから、その辺が関係しているのでしょう。ここの詳細は分からないのですが、とにかく、この曲を聴くとほっと安心感を覚えるのです。そういう意図ではないのかもしれませんが、ここでそれを感じた人は少なくないはずです。

 

 そこで思ったのが、インターネットで「暴力」を見ることについてです。シリアの問題を中心に、残酷な写真や映像がインターネット上に流れるようになり、私たちはいつでもそれにアクセスすることができます。しかし、検索から始まるネットの性質上、いくら「暴力」がその空間をたゆたっていても、そこへたどり着ける人は限られています。さらに見たくないものは、徹底して無視できるのがネットであり、「暴力」のようなものはますます深層へと追いやられてしまうでしょう。

 しかし、『トロイアの女』でおこなわれていた「暴力」は未だ現実にも存在し得るものであり、そこに対し同情や悲嘆の念を抱くのが人間で、そういった人間の感情こそが平和を築いていくのだとしたら、時に、「暴力」を直視しなければならないこともあるのではないでしょうか。

 そして、ここで言いたいことは、その「直視」に対し恐れることも怖がることもない、ということです。なぜなら、ネットには一方で、ほっと安心感を与えてくれるものもあるからです。それはこの作品でいう『恋の十字路』のようなもので、私たちは同じネット/舞台上で「暴力」と「安堵を与えてくれるもの」を並列に見ることができます。それはこれまでネガティブにとらえられていたネット(あるいはテレビ)の側面でもあるかもしれませんが、いざ、「暴力」を直視しようと思ったら、並列であることはむしろ救いであると言えるのでしょう。

 

 私は『トロイアの女』を観て、「現実を直視する恐ろしさ」と、「その恐ろしさを和らげる方法」といった二つのことを教えてもらった気がしました。少し乱暴に書いてしまいましたが、この作品が今こそ観られるべきであると強く感じた理由の一つは以上のようなものとなります。

 

お読み頂きありがとうございました。