八〇〇文字でブログ

原稿用紙2枚くらいで批評やエッセイを書くブログ。

バングラデシュのキャンプ地で生活するロヒンギャの今

ロヒンギャ問題について

 

 2017年4月17日、バングラデシュのコックスバザール付近にあるロンヒンギャ難民キャンプを取材した。取材したキャンプ地はバロカリ(Balokhali)とクトゥパロン(Kotupakong)の2ヶ所。バロカリの方は2016年10月9日に起きたミャンマーラカイン州での襲撃事件を受けて設置されたもので、比較的新しい場所になる。具体的な人数は把握しきれていない様子だったがクトゥパロンが約7万人、バロカリが約4万人だと言われている。どちらも日に日に人数は増しており、IOM(国際移住機関)や地元NGOによる食糧配給、MSF(国境なき医師団)による医療手当が施されるも、間に合っていないというのが現状だ。

 今回は主にバロカリキャンプで見てきたことをお伝えする。先に述べたように、ここはミャンマーラカイン州での襲撃事件を受けて開かれた場所になる。そのため、襲撃の被害者が多く暮らしている。ナイフや鉈で切られた人や、拳銃で叩かれた人、さらにはヘリコプターから銃撃された人もいた。事件以後も継続的に暴力や差別が横行しているらしく、キャンプの人数は増える一方である。

 

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  写真の手傷は拳銃で殴られてできたもの。深夜0時。軍に背後から捕まれた。腕に噛み付いて抵抗。二人の息子と三人の娘と一緒になんとか逃げてきた。傷はMSFにより手当されたものの、痛みは消えず夜も眠れない。襲撃時は夫も一緒にいたが、目の前で頭を叩かれ倒れてしまった。夫が生きているのか死んでいるのかはわからないが、希望は持っていないという。

 

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  こちらはヘリコプターから撃たれたという男性。3ヶ月前に母と一緒に逃げて来た。父とははぐれてしまい、今も行方が分からない。

 

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 彼は足を焼かれた。医者に相談した結果、切断することになった。(襲撃のことを思い出すと頭が混乱してしまうようで、とても怯えていた。質問するのをすぐに辞めたが、申し訳ないことしたと思う。)

 

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  彼らは取材の4日前にここへ到着。襲撃後、国境は渡らずに日本円で約4千円相当の貯金を切り崩してひっそり生活していたが、それも苦しくなったためキャンプに来た。

 

 最後の家族のようにミャンマーにとどまる人もいるが、彼らに対する嫌がらせは終わることがなく、仕事も得られない状況が続いていることが伺える。現状ラカイン州に外国人記者の取材が入ることは難しいが、そこから逃げて来た人々の様子から問題は何も解決していないことがわかる。

 

 続いて、キャンプでの生活の様子。家は近隣の山や村から調達した竹を骨組みとして使い、そこへビニールをかぶせて屋根を作る。壁は山の土を削り、水を混ぜ練って積み上げていた。

 水は随所に井戸が掘られている。食糧は主にWFP(国際連合世界食糧計画)が月2回、1世帯当たり25Kgの米や油などを支給することになっているが、まだ1回しか受け取れていないという声も多かった。

 

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 働ける人は近隣の田畑で働き収入を得ているが、給料はバングラデシュ人の約60パーセントまで値切られてしまっている。

 

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 トイレに関してはNGOが設置した公共の簡易トイレも見かけたが、ほとんどが自宅にトイレスペースを設けている。便器のようなものはなく、レンガの足場があるのみで、排泄されたものは外の溝へと流していく仕組みになっている。キャンプ内には側溝が張り巡らされているが、水の流れはほぼ止まっている。定期的に誰かが清掃役を買って出て汚物を流し込んでいくようにしているようだ。

 このように非常に質の低い生活を強いられているのが現状であるが、生活に関する最大の問題は、この生活がいつまで続くのかわからないということである。いっときのものなのか、ミャンマーに帰れるのか、あるいはバングラデシュでの新たな生活が始められるのか。その見通しが立たないという不安が彼らを追い詰めている。動く気力すら持てない人もいるくらいだった。

 

 こういう状況下で、周りの人々はどのように手を差し伸べることができるのだろうか。正直、僕にもわからない。なぜなら、この問題の根本には人の差別意識というべきか、無意識の欲望というべきか、人の感情が関わっているからだ。

 彼らの生活は苦しいが、これは経済の枠組みだけで考えられるものでは、おそらくない。彼らのケイパビリティはむしろ政治によって押し下げられている。さらに突き詰めれば、それは人間の感情、あるいは文学によって縮小している。

 今回のロヒンギャ襲撃事件の発端は、ロヒンギャの武装グループがミャンマー警察を襲ったことに始まっているが、その怒りの矛先は他のロヒンギャにまで波及してしまっている。そこには、そのような事態を引き起こしてしまう感情なり意識といったものの流れがある。「ロヒンギャ」というイデオロギー的な言葉には(ミャンマーでは「ロヒンギャ」という呼称は使われないが)、言葉では表せない差別的な感情を呼び覚ます何かが宿ってしまっている。それは言語化できないのだから、「ロヒンギャ」がどんなに善人で非暴力的かを言葉で述べたところで、取り除けるものではない。

 

 また、この問題に対するアクションが難しい理由はもう一つある。それは治安だ。

 僕が初めてバングラデシュに足を踏み入れたのが2009年。当時は、漠然とバングラデシュは少しずつ良くなっていくのだと思っていた。特に開発経済学の分野では、2006年にグラミン銀行ノーベル平和賞を取り、同年にはジェフリー・サックスの『貧困の終焉 2025年までに世界を変える』(早川書房)が訳され、貧困を解決するための方法論が活発に提示されていた。少し楽観主義的な見通しは2010年代の初め頃までは続いていたように思う。少なくとも僕はそうだった。2012年に翻訳されたアビジット・V・バナジーとエスターデュフロの『貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える』(みすず書房)を読み感銘を受けたのを今でも覚えている。

 ところが、ここ数年で事態は急変した。バングラデシュに関していえば、ISISの影響もあり治安は確実に悪くなっている。昨年はついに青年海外協力隊も撤退を余儀なくされた。ロヒンギャの難民キャンプに至ってはISISのリクルートがあると噂されている。また、チッタゴン丘陵地帯と呼ばれるモンゴロイド系先住民の多く住む地域では、ベンガル人と先住民の関係悪化に伴い、外国人の入域規制がより厳しくなっている。

 バングラデシュが発展し、僕が出向かなくてもバングラデシュ人の友人の方から日本に来られるようになるといいねと話していたこともあったが、むしろ僕の方がバングラデシュに行きづらくなっている状況だ。

 しかし、嘆いていても仕方がない。何か進展があった時に少しでも動けるように準備しておく、情報を整理し、理解者を少しでも増やしておく、できることをやっていく他ないだろう。

 

佐伯 良介