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CHAOS*LOUNGE 「風景地獄―とある私的な博物館構想」について

今日が最後という事でカオスラウンジの「風景地獄」の感想を。
CHAOS*LOUNGE 「風景地獄―とある私的な博物館構想」 | 六本木ヒルズ - Roppongi Hills


なぜ、この展示は「風景地獄」であって「地獄の風景」ではないのか。ぼくはそこが素朴に気になり、その解について考えていました。
まず会場で着目したいものは3つ。東京大空襲資料館の「看板」と山内祥太さんの《秘密の部屋》、そして黒瀬陽平さんの「ステイトメントにかえて」。
「看板」と《秘密の部屋》は真っ白な展示会場には似つかわしくない見てくれで、なんの因果か意図せず六本木に迷い込んだ、あるいは無理矢理連れてこられたかのようでした。
そして、その佇まいはまるで博物館の亡霊(実際にあ現存するので生霊か)のようであり、「そこに在るべきではない感じ」が亡霊の背後に広がる空間、つまり「本来あるべき場所」への想像力を掻き立てます。しかしその場所は鑑賞者の頭の中ではなく、実際に存在しているということが、黒瀬さんの文章で明らかにされています。さらにその文章では、大島に行くことでこの展示会が完結することが述べられており、想像的な空間が否定されています。しかしこれは現実が想像を上回るという意味では決してない。なぜなら大島に行くことで、鑑賞者はさらなる想像力を発揮せざるを得なくなるからです。

そして大島へ。
大島の博物館に辿りつくのは難しい。ネットで拾える情報はわずかであり、交番に訪ねても「ググって」と言われる始末。私は資料館のことが書かれているウェブサイトの断片的な写真に写るわずかなヒント、メイン通ではないけれど複数車線である事、隣のビル名やクリーニング屋の青い看板などを頼りに駅周辺を歩き回りました。
ちなみにそのサイトには店内の写真もあり、資料館に関する想像はその時点で現実に接近し、虚構をほぼ脱していました。
しかしそれでも、1時間半くらい歩いてようやく見つけた時の感動は大きなもので、子どもの頃の冒険ごっこの楽しさを呼び起こしてくれました。自分の中に、子どもである過去の自分がいることに気付かされ、過去への想像力が掻き立てられました。
そして、半ばノスタルジックな視線であらためて大島の資料館を見てみると、その建物の異様さに気付かされました。四角屋根が連なる中、これは三角屋根。実際に屋根が当時のままなのかどうかは分かりませんが、この建物も「そこに在るべきではない感じ」を醸し出しています。
しかし、六本木の展示はその空間に異質なものが紛れ込んだものですが、こちらは周りの環境が変化した事で亡霊と化しています。場所が移動するのではなく、同一空間における変化、つまり時制の変化です。その建物の背後に広がる想像的な空間は、同一であるが過去の空間(元の姿がすでにないためこちらは生霊とはいえないまさに亡霊/死霊)。既に過ぎ去ってしまった、ここにはもう存在しないものへの想像力が必要とされます。つまり、大島に出向くことで、さらに強烈な答えのない想像力を要請されるのです。

「風景地獄」とは、何か異様なものから膨らむ空間への想像、その否定、そして更新という終わりなき想像力の「脅迫」のことではないでしょうか。決して辿りつく事ができないにもかかわらず、それを求めて想像力がかき立てられていってしまう。あらゆる風景が消えることのない虚構として迫ってくる。あらためて六本木の「風景地獄」を振り返ると、他の作品が想像上の風景として鑑賞者を脅迫してくるかのように見えてきます。だからこそ「地獄の風景」ではなく「風景地獄」なのではないでしょうか。

というのがぼくの感想でした。