八〇〇文字でブログ

原稿用紙2枚くらいで批評やエッセイを書くブログ。

バングラデシュのキャンプ地で生活するロヒンギャの今

ロヒンギャ問題について

 

 2017年4月17日、バングラデシュのコックスバザール付近にあるロンヒンギャ難民キャンプを取材した。取材したキャンプ地はバロカリ(Balokhali)とクトゥパロン(Kotupakong)の2ヶ所。バロカリの方は2016年10月9日に起きたミャンマーラカイン州での襲撃事件を受けて設置されたもので、比較的新しい場所になる。具体的な人数は把握しきれていない様子だったがクトゥパロンが約7万人、バロカリが約4万人だと言われている。どちらも日に日に人数は増しており、IOM(国際移住機関)や地元NGOによる食糧配給、MSF(国境なき医師団)による医療手当が施されるも、間に合っていないというのが現状だ。

 今回は主にバロカリキャンプで見てきたことをお伝えする。先に述べたように、ここはミャンマーラカイン州での襲撃事件を受けて開かれた場所になる。そのため、襲撃の被害者が多く暮らしている。ナイフや鉈で切られた人や、拳銃で叩かれた人、さらにはヘリコプターから銃撃された人もいた。事件以後も継続的に暴力や差別が横行しているらしく、キャンプの人数は増える一方である。

 

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  写真の手傷は拳銃で殴られてできたもの。深夜0時。軍に背後から捕まれた。腕に噛み付いて抵抗。二人の息子と三人の娘と一緒になんとか逃げてきた。傷はMSFにより手当されたものの、痛みは消えず夜も眠れない。襲撃時は夫も一緒にいたが、目の前で頭を叩かれ倒れてしまった。夫が生きているのか死んでいるのかはわからないが、希望は持っていないという。

 

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  こちらはヘリコプターから撃たれたという男性。3ヶ月前に母と一緒に逃げて来た。父とははぐれてしまい、今も行方が分からない。

 

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 彼は足を焼かれた。医者に相談した結果、切断することになった。(襲撃のことを思い出すと頭が混乱してしまうようで、とても怯えていた。質問するのをすぐに辞めたが、申し訳ないことしたと思う。)

 

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  彼らは取材の4日前にここへ到着。襲撃後、国境は渡らずに日本円で約4千円相当の貯金を切り崩してひっそり生活していたが、それも苦しくなったためキャンプに来た。

 

 最後の家族のようにミャンマーにとどまる人もいるが、彼らに対する嫌がらせは終わることがなく、仕事も得られない状況が続いていることが伺える。現状ラカイン州に外国人記者の取材が入ることは難しいが、そこから逃げて来た人々の様子から問題は何も解決していないことがわかる。

 

 続いて、キャンプでの生活の様子。家は近隣の山や村から調達した竹を骨組みとして使い、そこへビニールをかぶせて屋根を作る。壁は山の土を削り、水を混ぜ練って積み上げていた。

 水は随所に井戸が掘られている。食糧は主にWFP(国際連合世界食糧計画)が月2回、1世帯当たり25Kgの米や油などを支給することになっているが、まだ1回しか受け取れていないという声も多かった。

 

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 働ける人は近隣の田畑で働き収入を得ているが、給料はバングラデシュ人の約60パーセントまで値切られてしまっている。

 

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 トイレに関してはNGOが設置した公共の簡易トイレも見かけたが、ほとんどが自宅にトイレスペースを設けている。便器のようなものはなく、レンガの足場があるのみで、排泄されたものは外の溝へと流していく仕組みになっている。キャンプ内には側溝が張り巡らされているが、水の流れはほぼ止まっている。定期的に誰かが清掃役を買って出て汚物を流し込んでいくようにしているようだ。

 このように非常に質の低い生活を強いられているのが現状であるが、生活に関する最大の問題は、この生活がいつまで続くのかわからないということである。いっときのものなのか、ミャンマーに帰れるのか、あるいはバングラデシュでの新たな生活が始められるのか。その見通しが立たないという不安が彼らを追い詰めている。動く気力すら持てない人もいるくらいだった。

 

 こういう状況下で、周りの人々はどのように手を差し伸べることができるのだろうか。正直、僕にもわからない。なぜなら、この問題の根本には人の差別意識というべきか、無意識の欲望というべきか、人の感情が関わっているからだ。

 彼らの生活は苦しいが、これは経済の枠組みだけで考えられるものでは、おそらくない。彼らのケイパビリティはむしろ政治によって押し下げられている。さらに突き詰めれば、それは人間の感情、あるいは文学によって縮小している。

 今回のロヒンギャ襲撃事件の発端は、ロヒンギャの武装グループがミャンマー警察を襲ったことに始まっているが、その怒りの矛先は他のロヒンギャにまで波及してしまっている。そこには、そのような事態を引き起こしてしまう感情なり意識といったものの流れがある。「ロヒンギャ」というイデオロギー的な言葉には(ミャンマーでは「ロヒンギャ」という呼称は使われないが)、言葉では表せない差別的な感情を呼び覚ます何かが宿ってしまっている。それは言語化できないのだから、「ロヒンギャ」がどんなに善人で非暴力的かを言葉で述べたところで、取り除けるものではない。

 

 また、この問題に対するアクションが難しい理由はもう一つある。それは治安だ。

 僕が初めてバングラデシュに足を踏み入れたのが2009年。当時は、漠然とバングラデシュは少しずつ良くなっていくのだと思っていた。特に開発経済学の分野では、2006年にグラミン銀行ノーベル平和賞を取り、同年にはジェフリー・サックスの『貧困の終焉 2025年までに世界を変える』(早川書房)が訳され、貧困を解決するための方法論が活発に提示されていた。少し楽観主義的な見通しは2010年代の初め頃までは続いていたように思う。少なくとも僕はそうだった。2012年に翻訳されたアビジット・V・バナジーとエスターデュフロの『貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える』(みすず書房)を読み感銘を受けたのを今でも覚えている。

 ところが、ここ数年で事態は急変した。バングラデシュに関していえば、ISISの影響もあり治安は確実に悪くなっている。昨年はついに青年海外協力隊も撤退を余儀なくされた。ロヒンギャの難民キャンプに至ってはISISのリクルートがあると噂されている。また、チッタゴン丘陵地帯と呼ばれるモンゴロイド系先住民の多く住む地域では、ベンガル人と先住民の関係悪化に伴い、外国人の入域規制がより厳しくなっている。

 バングラデシュが発展し、僕が出向かなくてもバングラデシュ人の友人の方から日本に来られるようになるといいねと話していたこともあったが、むしろ僕の方がバングラデシュに行きづらくなっている状況だ。

 しかし、嘆いていても仕方がない。何か進展があった時に少しでも動けるように準備しておく、情報を整理し、理解者を少しでも増やしておく、できることをやっていく他ないだろう。

 

佐伯 良介

バングラデシュ到着 ダッカにて

4月5日
 深夜にバングラデシュ到着。ここからタクシーで最寄りのホテルに向かう。バングラデシュに来て最初に泊まるホテルはいつも「あじさい」。日本人がオーナーで、バングラ人スタッフも結構日本語がうまい。泊まるのはいつもドミトリーで、部屋は取らない。しかし、バングラデシュでは一番落ち着ける場所だ。バックパッカーではないし、安宿に泊まる必要はないけれど、ビジネスホテルよりも落ち着く。とにかく今日は寝て、明日色々と準備を整えるとしよう。
 
4月6日
 今日はチッタゴン行きのバスチケットと携帯電話、それから石鹸やシャンプー、蚊除けスプレーなど必要なものを揃える日となった。アダプタの変換プラグを日本に忘れたので、それも買った。
 バスチケットはENAというバス会社で購入。値段は1200タカ(日本円で約1680円)エアコン付きかどうかで値段が変わる。エアコンが付いていないと500円くらい安くなる。が、エアコンが付いているかどうかはそれほど重要じゃない。それよりも窓がちゃんと閉まるかとか、椅子が壊れてないかとか、基本的な設備が整っているかどうかの方がずっと重要だ。エアコンの付いてない安いプランだとそういうハズレを引くことが稀にある。所要時間は6時間。ここは快適に行きたい。もうエアコン付きの一択だ。
 携帯電話は以前使っていてSIMフリー端末を持参していたので、SIMカードだけ買えばよかった。いつもグラミンフォンという会社を利用しているし、今回もグラミンフォンでいいやと思いショップに移動。ところが本店でないと新規受付ができないと言われた。本店はグルシャンにあるからそこへ行けと。こんなことは初めてだ。国の発展とともに管理もしっかりしてきている様子。望ましいことなのかもしれないが面倒だ。グルシャンは日本でいう銀座みたいな町で、ウェスティンホテルのアイスクリームがとにかく美味しい。行ってみてもよかったけど、今から行って帰って来たら、確実に夜遅くなる。ダッカの嫌なところは、とにかく渋滞が多いということ。3、40分で行けるところを2時間近くかかるなんてザラだ。もうSIM
カードのためにそんな時間をかけたくないので、路上で売っているロビーという会社のSIMカードを購入。これがすっごくに楽だった。路上に机ひとつ置いての商売という、非常に見すぼらしい佇まいだったけど、タブレット指紋認証バイスで登録手続きを行うという、なかなかハイテクな受付だった。
 
 ものが揃ったところで、チッタゴンにいる知り合いに連絡。携帯の番号とバスの到着予定時刻を伝えた。これで大体の任務は完了。
 
 4月7日
 今日は割と落ち着ける日だった。ダッカチッタゴンの治安を調べつつ、帰国した後のプランを再検討。
 夜にはバングラデシュで働いている日本人の友人Sくんがホテルを訪ねて来てくれて、一年ぶりに話すことができた。彼も彼なりのバングラデシュの状況整理をしている様子だった。ヨーロッパ人が減ったことやテロが今も起き続けていることなど、日本では報道されない情報が得られた。
 明日はいよいよチッタゴン丘陵地帯である。

バングラデシュに行くまで編 その二

4月3日
 入域許可証が発行された。そこには僕の名前と国籍、パスポート番号、入域する日と出て行く日が印字されていた。そして、許可証には「滞在中の訪問者は以下のことを要求される」とある。
 
 1, ランガマティ県に入る前に警察のチェックを受け、名前を登録すること。
 
 2, 公式な会議に出席することを控えること、また、チッタゴン丘陵地帯に関する問題への言及を控えること。
 
 3, 移動の際は現地の行政局と警察との連絡を取り続けること。
 
 4, 移動の際は十分注意すること。
 
 5, 与えられた日程をしっかりと維持すること。
 
 そしてどうやら、この申請書はダッカ内務省事務局とランガマティにある6つの警察や軍関連の事務局にコピーして送付されるとのこと。とにかくあらゆる機関が外国人を監視することになっている。
 特に1番と2番が具体的だ。1番は検問所を通れと言っている。2番はチッタゴン丘陵地帯の政治に関わるなということだ。2番の「控える」は”refrain”という単語が使われているが、この単語が掲示で使われるときは禁止に近い。日光とかの「猿に餌を与えないでください!」みたいな感じだ。
  この2番はまさに「政治的自由の制限」と言えるだろう。具体的にどのようなことに関わってはいけないのかは、抽象度が担保され解釈の幅が広くなっている。暴力的な反政府組織の会合から和平的なNGOの活動まで、あらゆることが範疇になりかねない。
 
 確かに先住民問題は危険な事柄ではある。襲撃事件は軍主導と言われているが、先住民の方にも過激派はいる。これに触れないことは身の安全を守る上でも得策と言えるだろう。しかし、それが政治的自由の制限を行ってよいという根拠になるのだろうか。そこにあるのは、問題を解決しようという姿勢ではなく、問題を隠そうという姿勢があるとしか言いようがないのではないか。
 仮にこれが安否のためだと知らなくとも、あるいは、この土地の争いの歴史を知らなくとも、察しのいい外国人は誰でも気付くだろう。「ここには触れてはいけない何かがある」と。このような許可証を受け取りながら、自然を満喫するなんてできるわけがない。目に見えてる自然などもはやどうでも良い。むしろ見えてこない「何か」の方がずっと引っかかる。美しい自然や人々の笑顔と共に、政治的自由の制限により隠された何かがそこには存在する。就寝。
 

バングラデシュに行くまで編 その一

 2017年4月10日から14日頃までがチッタゴン丘陵地帯に住む先住民にとってのお正月になります。今回は先住民の中でももっとも人数の多いチャクマと呼ばれる人々のお正月の祝い方やイベントを「日記」という形でご紹介いたします。
 なぜ、「日記」なのか。それは、この地に外国人が入り、先住民と共にお正月を祝うということ自体に政治的な意味が付与されるからです。つまり、外国人がいると軍や警察の干渉が入り自由にお正月を祝うことができないということです。そのことを示すには、チャクマという人々がどういう存在なのかをただ紹介するのではなく、私がどのようにそれを楽しんだかを伝える方が効果的だと考えました。だから「日記」なのです。前置きはこのくらいにして本題に入りましょう。
 
 ちなみに今回はまだ日本にいる間なので写真もなく内容も少し重いですが、少しづつ写真を増やし文字を減らして行く予定です。
 
 
 
2017年3月27日 東京
 
 チッタゴン丘陵地帯に入るには政府に許可を申請しなければならない。難民キャンプのような特殊な場所であれば許可がいることもわからなくはないけど、事情を知らないと理解に苦しむところだ。一見すると、ここも数ある農村の一つにすぎない。確かに先住民が多く住んでいるが、それを言うなら他にも同じように先住民が多く住む地域はある。ここだけなぜなのか。
 表向きの理由は「治安」ということになっている。この地域の先住民は自治を巡って中央政府と争った歴史がある。1997年に和平協定が結ばれ激しい戦闘状態は終わりを迎えたものの、協定の内容は未だに実施されず、しこりを抱えたままとなってしまっている。「紛争状態」ではなくなったが、入植してきたベンガル人と先住民ジュマの関係は悪く、襲撃事件が度々起きている。治安は良いとは言えないというわけだ。とはいえ、その襲撃事件の実態は、軍の後ろ盾ありきのベンガル人入植者による先住民に対する焼き討ちやレイプといった惨状だ。各事件の経緯や様子についてはジュマ・ネットというNGOが精力的に調査しているが、どれも悲惨なものだ。
 
 治安の悪さを「演出」し自ら防犯を買って出る。マッチポンプ的な状態に全く納得できないが、いずれにせよ許可をもらわなければならない。法を破るようなのとをして現地の先住民に迷惑を掛けるわけにはいかない。僕はチャクマ語が話せないからきっとすぐにバレてしまうだろうし。
 というわけで、現地の知り合いにパスポートとビザのコピーを送り、役所に申請してもらう手はずを整えた。滞在日数、訪問する県(チッタゴン丘陵地帯はカグラチョリ県、ランガマティ県、バンドルバン県の三つの県から成り立っており県ごとの許可が必要になっている)、宿泊先ホテルを話し合う。今回の目的は一つ、「ビジュ」と呼ばれるチャクマの新年祭を楽しむこと。なので滞在日数はビジュの行われる期間である4月8日から14日までの一週間。訪問する県はランガマティ、そして宿泊先はトンギャ・ハウスという地元NGOの運営するゲストハウスに決まった。
 あとは許可が降りるのを待つ。昨年は申請がうまく行えず、結局許可が降りなかった。その反省を活かし今回は早すぎず遅すぎず、申請のタイミングを見計らった。現地の知り合いがうまくやってくれることを祈る。就寝。

なぞりなぞれば謎になる 〜新宿眼科画廊「なぞる謎る」展について〜

山本浩生個展「なぞる謎る」が新宿眼科画廊で約十二日間、九月七日まで開催された。紙の皺やおもちゃカボチャの皺、木材の木目、ピザチラシの色彩の境界などをなぞる、なぞるシリーズを中心に、つらぬく、濡らすと乾かす(はがす)、反転するなど多様な試みのもとに創作された様々な作品が大小五つのスペースに配置されいた。

 

そこに謎は一切ない。観た者は全てを了解する。「皺をなぞったのだ」「紙を貫いたのだ」「紙がはがれたのだ」と。そしてその原理も了解する。「ボールペンでなぞったのだ」「ボールペンで貫いたのだ」「濡れた紙が乾いてはがれたのだ」と。「何を作ったのか」ではなく「何をしたのか」の結果が過程を表象する形で現れている。それ以上でもそれ以下でもない。「これはいったい何を表しているのか」と考えるのも馬鹿らしくなるほどに、そこには「皺がなぞられた」以外に何も読み取るものがない。

ところが、目の前に置かれたその作品は、例えば皺をなぞられた巨大なロール紙は、確かにロール紙ではあるがもはやロール紙ではないという、不思議な余剰を宿している。より分かりやすいのは、白地図やピザのチラシだろう。単純に皺や色の境界をなぞっただけにすぎないのだから、白地図だと分かるしピザのチラシだとも分かるが、白地図としての役割もピザのチラシとしての役割ももはや担っていないように見受けられる。カラー地図ではなくあれは確かにまだ白地図なのだが、白地図として使おうとするものはいないだろう。また、あのチラシが配布されてもピザを注文する人はいないだろう。つまり、「なぞる」という行為によって「それであってそれでないもの」が浮かび上がってきているのである。

いや、本当にそうであろうか。単純な事実を見落としている。それは、なぞられたのは皺や色の境界であるということだ。ロール紙や白地図は単純に線が書き込まれて、これ以上に書き込めないということに過ぎない。また、ピザのチラシもボールペンでなぞられて汚く見えるということに過ぎない。私たちが見ているのに見えていないもの。可視化されているのにそれであるとは言い切れないもの。つまり皺と色の境界こそが余剰を宿している張本人なのであると言うべきであろう。

 

ここからの議論はロール紙と白地図の皺など皺をなぞったものに限定したい。なぜならピザのチラシは色の境界をなぞっているため、皺をなぞるのとは見出されるものが異なってくるからである。

まず皺を付けるというのは、平面から立体への変化を遂げることでもある。紙は通常、書き込まれた後、紙としての存在が後退する(平面化する)。これは白地図にも言える。白地図で重要なのは大陸をかたどる線と国や地域を類型化するアレンジの余地である。アレンジの余地が消え、用途別の地図が完成されれば紙としての存在は後退する。ロール紙も白地図重要なのは書かれた内容の方であるのが常である。が、しかし、山本の作品はまだ紙が紙としての存在感を露にし続けている。それは当然ながら皺を付けられたからである。平面ではなく立体的造形物として提示されているからである(ピザのチラシの場合は、色の境界をなぞるため、紙は平面としての役割を担い続けている)。ここでは平面から立体への変化の手段として皺が用いられている。そこではまだ紙が主役であると言ってもよい。皺の付いた紙を作品として提示することもあり得るだろう。しかし、そこに「なぞる」というもうひとつのアクションが加わる。それは皺をどうする「ため」なのか。なぞるは何を目的とした手段なのか。

 

ここでは「なぞる」一般に敷衍させるようなことはせず、皺がボールペンでなぞられたという事実に限定して論を進めていきたい。山本は筆でも鉛筆でもなくボールペンでなぞることを選んだ。これは作家の個性というよりも合理的な判断のもとでのことであろう。皺を効率よく均等になぞるならば、線の太さが変わらないことと、線が途切れないことが重要なはずである(それがよい線だと判断すること自体は作家の個性であるが)。そして、ボールペンにも色々な種類があるが、通常よりインクの出のいいものが選ばれたことは想像に難くない。それは作品を見た時に、線がほとんど途切れていないということからも分かるが、山本がアスファルトの裂け目をチョークでなぞっている動画作品によっても推測ができる。その動画の中での山本のなぞり方は、なぞる裂け目を恣意的に選択しながらも、加える力のベクトルは裂け目に導かれるようにして流れているのが見て取れる。それは道楽的な川下りに似ている。川の流れに身を置きつつも、全てを流れに任せない。左右の選択くらいはするが、右に行きにくいところをあえて右に行くようなこともしないといった具合である。そのような加減で皺はなぞられている。あるいは山本はなぞらされている。そして、線が途切れない、インクの出がいいということから次のようなことが推論できる。それは、ボールペンのインクがなくなるのも比較的早いだろうということ。ボールペンとははじめからインクの内蔵されたペンである。ボールペンで書くということはインクをペンの中から紙の上へと移動させることに他ならない。中のインクが全て移動すれば、残るのは抜け殻のペンである。なぞることで大量の抜け殻のペンが生み出されているのである。

ボールペンで文字を書く場合、それは単なるインクの移動である。しかし、ところ狭しと刻まれた皺をなぞることは、ひからびた川に水が流れると言うように、血管に血が流れると言うように、「流れる」という言葉の方があっているように思える。それは活力と液体との関係と同じである。力は注がれるものであり、液体的なものである。「死力を注ぐ」という表現があるが、それは死んでもいいという覚悟で生命の流れを早めて密度を濃くすることである。その後はたいがい倒れる。水気のない皺にインクが注がれる。皺が「蘇る」。反対にペンはひからびる。活力の交換が行われた。

しかし、活力に満ちたものだけが作品たりえるのか。そうではない。空になった大量のペンも作品たりえるはずである。しかし、それがなぜ展示会場に置かれていないのか。私はこう解釈する。「なぞる」という行為を続けた結果、片方は謎になってしまったのだと。「なぞるなぞる」という動作を表す言葉の反復は実際に書かれる(ボールペンでなぞられる)ことによって「なぞる謎る」となり、後方が「謎」になってしまったのだと。「謎」は確かに展示会場にはなかった。「謎」は抜け殻になったペンを想像する私の頭の中にあったのだ。

 

ここにきて新たな作品の存在に気付くことができた。そして「なぞる」がどのような変化を生み出す手段として用いられたのかにも気付くことができただろう。単に皺の付いた紙を提示するだけでも作品と言えたはずである。しかし、その皺を利用して、つまり「なぞる」という手段によってもう一つの作品が生み出された。そしてその新たな作品は展示された作品と対を成すように、互いが互いの読み解き方を規定するかのように機能している。全てが了解されていたはずなのに、突然の、ボールペンでなぞったという事実の想像の介入が作品を読み替えるきっかけとなっている(そもそも読み解くものがないとも言えるので、読み替えとは言わないかもしれないが)。しかし、その想像はもともとは作品自身から見出されたものであることも忘れてはならない。

 

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toddle『Vacantly』の時間

 音楽は時間とともにある。音楽があるというとき、そこには時間が流れる。いや、音楽がなくても時間は流れているが、音楽があることによって、ぼくたちは時間の流れを感じざるをえなくなる。しかしそれは音楽「の」時間であって、ぼくたちが日々意識している時間とは異なる。音楽を聴くとき、そこにはいつもとは違う時間が流れているように感じる。それは音楽をとめたとき、音楽とともに別のなにかが消えてしまったように感じてしまう、その喪失感から遡行的に発見できるものなのだろう。あー、いまぼくは音、リズム、そして言葉が生み出す時間の流れの中にいたのだと。『Vacantly』もその例外ではない。別の時間が、収録されている一曲一曲によって呼び出される。がしかし、それだけにとどまらなかった。

 

  ”Disillusion”は「正気にさせる」とか「迷いをさまさせる」といった肯定的な意味がある一方で、「幻滅を感じさせる」という否定的な意味もある。そのどちらに重きが置かれているのかはわからない。あるいは、もっそ即物的に”illusion”が”dis”されるだけなのかもしれない。

 ゆっくりと爪弾かれる牧歌的なギターの音色、つづくシンバルがなにかのはじまりを期待させる。なるほど確かに、さわやかな情景、迷いのない表情が目に浮かぶ。Disillusion。目覚めだ。しかし、曲の中盤。「誰もさわれない」そして「決して染まることのない」影が、それほどに純粋な影が「消えていく」、と言葉が告げる。と同時に、言葉も消える。その隙間をギターソロが埋める。音色は悲しみに満ちている。

 言葉の主はいずこへ。まるで彼女自身が影であり幻想/illusionであったかのようである。はじめのシンバルに抱いた期待。それももはや自分とは関係のないなにかのはじまりに過ぎなかったのかもしれない。曲が終わる。「別の時間」も消える。その中にいた言葉の主はもっと深くに消えていってしまう。二重の喪失感。大切なものをなくしてしまった気がするのに、もはやなにをなくしたのかすら思い出せないかのよう。

 

 音楽の時間がおわり、知覚する時間がひとつに絞られるまでの間、ほんのその一瞬、また別の時間がぼんやりと流れる。音楽にも現実にも属さない時間。二重の喪失感と、その喪失感に相反するように現実が立ちあらわれてくる。現実がはっきりとしてくるまでの間の時間。大切なものをなくした自分の生きる現実は、あのはじまりのシンバルのように自分とは関係のないことのはじまりで満ちている、ように感じる。それでもそこで生きなければならない。そして現実へと引込まれていく。しかし、引き裂かれの時間を感じたぼくは以前のぼくではない。そこには、なにかをなくしてしまっていると自覚しているぼくがいる。

 

 

CHAOS*LOUNGE 「風景地獄―とある私的な博物館構想」について

今日が最後という事でカオスラウンジの「風景地獄」の感想を。
CHAOS*LOUNGE 「風景地獄―とある私的な博物館構想」 | 六本木ヒルズ - Roppongi Hills


なぜ、この展示は「風景地獄」であって「地獄の風景」ではないのか。ぼくはそこが素朴に気になり、その解について考えていました。
まず会場で着目したいものは3つ。東京大空襲資料館の「看板」と山内祥太さんの《秘密の部屋》、そして黒瀬陽平さんの「ステイトメントにかえて」。
「看板」と《秘密の部屋》は真っ白な展示会場には似つかわしくない見てくれで、なんの因果か意図せず六本木に迷い込んだ、あるいは無理矢理連れてこられたかのようでした。
そして、その佇まいはまるで博物館の亡霊(実際にあ現存するので生霊か)のようであり、「そこに在るべきではない感じ」が亡霊の背後に広がる空間、つまり「本来あるべき場所」への想像力を掻き立てます。しかしその場所は鑑賞者の頭の中ではなく、実際に存在しているということが、黒瀬さんの文章で明らかにされています。さらにその文章では、大島に行くことでこの展示会が完結することが述べられており、想像的な空間が否定されています。しかしこれは現実が想像を上回るという意味では決してない。なぜなら大島に行くことで、鑑賞者はさらなる想像力を発揮せざるを得なくなるからです。

そして大島へ。
大島の博物館に辿りつくのは難しい。ネットで拾える情報はわずかであり、交番に訪ねても「ググって」と言われる始末。私は資料館のことが書かれているウェブサイトの断片的な写真に写るわずかなヒント、メイン通ではないけれど複数車線である事、隣のビル名やクリーニング屋の青い看板などを頼りに駅周辺を歩き回りました。
ちなみにそのサイトには店内の写真もあり、資料館に関する想像はその時点で現実に接近し、虚構をほぼ脱していました。
しかしそれでも、1時間半くらい歩いてようやく見つけた時の感動は大きなもので、子どもの頃の冒険ごっこの楽しさを呼び起こしてくれました。自分の中に、子どもである過去の自分がいることに気付かされ、過去への想像力が掻き立てられました。
そして、半ばノスタルジックな視線であらためて大島の資料館を見てみると、その建物の異様さに気付かされました。四角屋根が連なる中、これは三角屋根。実際に屋根が当時のままなのかどうかは分かりませんが、この建物も「そこに在るべきではない感じ」を醸し出しています。
しかし、六本木の展示はその空間に異質なものが紛れ込んだものですが、こちらは周りの環境が変化した事で亡霊と化しています。場所が移動するのではなく、同一空間における変化、つまり時制の変化です。その建物の背後に広がる想像的な空間は、同一であるが過去の空間(元の姿がすでにないためこちらは生霊とはいえないまさに亡霊/死霊)。既に過ぎ去ってしまった、ここにはもう存在しないものへの想像力が必要とされます。つまり、大島に出向くことで、さらに強烈な答えのない想像力を要請されるのです。

「風景地獄」とは、何か異様なものから膨らむ空間への想像、その否定、そして更新という終わりなき想像力の「脅迫」のことではないでしょうか。決して辿りつく事ができないにもかかわらず、それを求めて想像力がかき立てられていってしまう。あらゆる風景が消えることのない虚構として迫ってくる。あらためて六本木の「風景地獄」を振り返ると、他の作品が想像上の風景として鑑賞者を脅迫してくるかのように見えてきます。だからこそ「地獄の風景」ではなく「風景地獄」なのではないでしょうか。

というのがぼくの感想でした。